三増合戦史跡

三増合戦場碑

 1569年(永禄12年)、甲斐の武田軍と小田原の北条軍が激戦を繰り広げた「三増合戦」を記念して、「三増合戦場碑」が400年後の1969年(昭和44年)に、建立されました。

 「三増合戦(三増峠の戦い)」は、1569年(永禄12年)10月、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康の軍が戦った、戦国時代の中でも名高い山岳戦です。史書「甲陽軍艦」には、戦死者は北条方3,269人、武田方900人と記されています。

 合戦の序盤は、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により、武田軍左翼の侍大将・浅利信種が撃たれるなど、北条軍が有利に経過しました。しかし、武田軍の山県昌景率いる五千の精兵が高所から奇襲に出ると戦況は一気に傾き、北条軍の後軍が間に合わなかったことも影響して、最終的には、武田軍が勝利したそうです。

 激しい戦を物語るかのように、この一帯からは、刀や槍、鉄砲の弾などが出土しています。また、「武田信玄の旗立て松」、「浅利明神」、「首塚」などの史跡が残っています。現在、愛川町立愛川中学校となっている「田代城」も、戦いに巻き込まれて落城したと伝わっています。

 毎年秋には、両軍の戦死者を祭る慰霊祭と、戦国絵巻を今に再現する「三増合戦まつり」が合戦場跡で開催されています。

 

・住所:神奈川県愛甲郡愛川町三増1182-3

・アクセス:圏央道相模原ICから津久井広域道路を経て、県道65号(厚木愛川津久井線)で

      約15分

(画像)三増合戦碑

三増合戦場跡

武田信玄の旗立て松

 三増合戦の際、武田信玄が大将旗を立てたと言い伝えのある旗立て松。その老松が枯れてしまったことを惜しんで、1928年(昭和3年)に石碑が建てられました。戦国時代に信玄が陣取った松の付近は、眺めも抜群です。


・アクセス:東名厚木カントリー倶楽部(神奈川県愛甲郡愛川町三増2607)の駐車場から、

      徒歩15分

(画像)武田信玄旗立松蹟址碑

浅利信種墓所と浅利明神

 激闘の末、北条軍が放った鉄砲で胸を撃たれて戦死した、武田二十四将の一人、「浅利信種」。その信種を祀った「浅利明神」では、祈願成就の際、木太刀を奉納する習わしが今に伝わっています。


・アクセス:東名厚木カントリー倶楽部そば(神奈川県愛甲郡愛川町三増2607)。

      「浅利明神墓所入口」の標柱が目印

(画像)浅利明神

首塚

 志田道と町道との分岐点の丘の上にある首塚は、不動堂とも呼ばれています。1706年(宝永3年)に建てられた碑には、当時この辺りに戦死者の幽霊が出没するので、念仏で供養したと刻んであります。

 

・アクセス:三増合戦場碑(神奈川県愛甲郡愛川町三増1182-3)から半原方面へ徒歩で7分。

      上志田バス停そば 

(画像)首塚と胴塚

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