あいかわ景勝10選

 山や川などの自然、寺社仏閣、旧跡、建造物などの美しい景観は、町の財産です。それら永遠に残したい誇れる風景を、広く町内外に紹介するため、平成12年度(2000年)に「あいかわ景勝10選」を選定しました。

宮ヶ瀬ダムと新石小屋橋

(画像)宮ヶ瀬ダム

 新石小屋橋越しに仰ぎ見る宮ヶ瀬ダムは壮大です。橋上からは大沢の滝も見えます。

 宮ヶ瀬ダムは、東京都心から約50km、横浜や川崎の市街地から約40kmという近さの場所にある、首都圏最大級のダムです。観光放流も定期的に行っており、放流量が1秒間に30立方メートル、放流時間は6分間におよびます。ダイナミックな人工瀑布をお楽しみください。

経ヶ岳・仏果山・高取山にかけての山並み

(画像)経ヶ岳・仏果山・高取山の山並み

 朝や夕なに、そして季節ごとに趣を変える山々の姿は、眺める人を飽きさせません。

 登山コースもあり、弘法大師が経文を納めたと言われる巨岩「経石」がある「経ヶ岳」から、室町時代に清川村の正住寺を開いた仏果禅師が座禅修行した「仏果山」、眺望の良い「高取山」を縦走することができます。「経ヶ岳」、「仏果山」の頂上手前の登山道では岩場やヤセ尾根があり、ピーク間の高低差もあるため、健脚の方におすすめです。

 また、「仏果山」・「高取山」の頂上には、それぞれ高さ13mの展望台が設置してあり、東丹沢の山々や宮ヶ瀬湖、新宿副都心ビル群、東京スカイツリーなどを眺めることができます。特に天気の良い日には、関東平野越しに筑波山や日光の男体山まで見えることもあります。

塩川滝飛沫

(画像)塩川滝

 滝幅4m、落差15mの塩川滝。滝壺近くは夏でもひんやりとした冷気が漂っています。名勝であるとともに雨乞いの霊験あらたかな滝としても有名でした。

 神()年間(724~729年)、奈良東大寺の別当(べつとう) 良弁僧正(ろうべんそうじょう)が、ここに清滝(せいりゅう)権現(ごんげん)(まつ)ったとの伝承があります。また、八菅()修験()の第五番の行所でした。天保()12年(1841年)に編纂された『(しん)(ぺん)(さが)(みの)(くに)()()()稿(こう)』にも「(すこぶ)名瀑布(めいばくふ)なり」として称えられ、絵も掲載されています。

勝楽寺の山門と杉木立ち

(画像)勝楽寺の山門

 毎年4月17日の半僧坊大祭には多くの人で賑わう勝楽寺。

 その山門は、嘉()4年(1851年)に建立され、木造総欅(いり)母屋(もや)三間造り、前面に(から)破風(はふ)のある二重門()重層門())となっています。

 屋根は反りが強い銅板平葺(ひらぶき)(初期は茅葺(かやぶき))。総高16m、階下間口9m、奥行5.6m、階上間口8.4m、奥行5mです。階上には釈迦三尊()十六()羅漢()が安置されています。

 文政()12年(1829年)、勝楽寺二十三世大雄(だいゆう)亮仙(りょうせん)和尚のとき、山門造営を発起()し、半原()(かしわ)()()兵衛(へえ)安則(やすのり)が大工棟梁(とうりょう)として着工しました。しかし、安則の死去にあい工事は中断。嘉永2年(1849年)、安則の子、矢内(やうち)()兵衛(へえ)高光(たかみつ)は父の志を継ぎ工事を再開し、2年後に落成しました。

三増合戦碑と志田峠

(画像)三増合戦碑

1569年(永禄12年)、甲斐の武田軍と小田原の北条軍が激戦を繰り広げた「三増合戦」を記念して、「三増合戦場碑」が400年後の1969年(昭和44年)に、建立されました。

 「三増合戦(三増峠の戦い)」は、1569年(永禄12年)10月、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康の軍が戦った、戦国時代の中でも名高い山岳戦です。史書「甲陽軍艦」には、戦死者は北条方3,269人、武田方900人と記されています。

 合戦の序盤は、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により、武田軍左翼の侍大将・浅利信種が撃たれるなど、北条軍が有利に経過しました。しかし、武田軍の山県昌景率いる五千の精兵が高所から奇襲に出ると戦況は一気に傾き、北条軍の後軍が間に合わなかったことも影響して、最終的には、武田軍が勝利したそうです。

箕輪耕地遠望

(画像)箕輪耕地

 遥かに広がる田園風景。田んぼをまっすぐに走る道は水道みちと言われ、横須賀まで続く水道管が敷設されています。

八菅山と八菅神社

(画像)八菅神社

 八菅山一帯は、古くから神仏混交の信仰の聖地であり、修験道の一拠点でした。ヤマトタケルノミコト、修験道の開祖・役小角、高僧・行基などの来山が伝えられ、源頼朝や足利尊氏・足利持氏による社殿の建築や整備が行われたといわれています。

 毎年、3月28日に開催される八菅神社例祭での火渡りは、1年の無病息災を祈る伝統行事です。山伏装束の人たちが燃え盛る火の中を歩く光景は、往時の荒行を今に伝えます。例祭では、一般の人も火渡りに参加できます。

山十邸と中津往還

(画像)古民家山十邸

 古民家山十邸は、古くからのただずまいを残し「かながわのまちなみ100選」 に選ばれた愛川町中津熊坂地区の旧街道沿いにあります。明治16年(1883年)に豪農の屋敷として立てられた山十邸は、昭和19年(1944年)、思想家・大川周明の所有となり、周明の没後、さらに別な所有者を経て、昭和63年(1988年)、町所有となりました。一部修復した後、平成元年(1989年)から一般公開しています。

 山十邸は、この地方の明治初期における豪農層の住居の姿を示すものとして、愛川町が、その建物や庭園等を後世に残すために修復、保存を図ったもので、平成21年(2009年)1月に国登録有形文化財となりました。

 現在は、町に申請することで、研修や文化活動等で専用使用することができます。

工業団地といちょう並木

(画像)内陸工業団地のいちょう並木

 「神奈川県内陸工業団地」を縦横に行き交ういちょうは、秋には、葉の黄色と工場群のコントラストが美しい並木道になります。

 愛川町が有する「神奈川県内陸工業団地」は、神奈川県内でも有数の規模を誇り、自動車部品・機械金属製品などの100社を超える企業が操業し、無公害型の工業団地として高い評価を受けています。圏央道の相模原愛川インターチェンジや相模原インターチェンジにより、立地の良さがさらに向上しており、宅配業の都市間物流拠点やテナント型の大型物流施設も建設されるなど、新たな企業進出が続いています。

 なお、この地区は、もともと中津台地一面の桑畑を、太平洋戦争直前の昭和15年(1940年)頃から旧日本軍の相模陸運飛行場(中津飛行場)として開発した土地でしたが、戦後、開拓農地として分割され、土地改良事業は実施された後、昭和36年(1961年)から、工業団地が造成されたという歴史があります。

中津川の清流

(画像)秋の中津川

 町のほぼ中央を流れる中津川は古くから半原の撚糸や稲作など、暮らしの営みを支えてきました。山々の合間を流れる川のせせらぎは、今も変わらず人々の心を癒しています。

 また、中津川は、透明度が高く、川幅があるため、お子さんと本格的な川遊びに挑戦したいファミリーにぴったりです。釣りやキャンピングカーを利用したキャンプ、ピクニックと、思い思いの楽しみ方ができるのも魅力です。